最期の4日間の記録

親父と過ごした最期の4日間。
早くも記憶が断片的で曖昧になりかけて
いるので忘れない内にその4日間の出来事
を書き留めておきたいと思った。

#これで親父の事を書くのは最後にしよう
 と思う。。


=10/15(月曜日)=

PM21時過ぎ
 親父が入院している病院に到着。
 裏口のインターホンで名前を告げて中に
 入れるようにしてもらっていた。
 宿直の看護師の方に親父がいる個室の部
 屋まで案内してもらう。

 既に意識が無い親父との無言の対面。

 看護師の方と親父を目の前にしていくつ
 か話をした。

 『意識が無くなったのはいつから
  ですか?』

 『先週の金曜日の夕方からですね。。
  それまでは普通に。。』

 意識は無いが容態は安定しているという
 話を聞いて病院の集会室に用意された
 簡易ベッドに案内された。
 幅が窮屈だったがそれ以外は何の不満も
 なく。

 親父の様子を暫く見守ってから、
 その日は東京からの移動で疲れた事も
 あり23時前にはベッドに横になった。

=10/16(火曜日)=

AM3時頃
 横になってから、わずか4時間後の事。
 看護師の方の急を告げる声で目を覚ま
 した。。

 『脈拍が下がっています。。』

 病室までフラフラしながら向かうと
 宿直の先生も来ていた。

 『酸素マスクがずれたようですね。
  マスクを着け変えたら数値が安定
  してきました。』

 その後、看護師の方が親父の枕の位置
 を変えている時、親父が目を開いた!

 しかしながら意識がある目ではなかっ
 た。瞳孔が開いており、目の前の光り
 にも全く反応が返ってこなかった。

 4,5分後、再び目が閉じられた。。

 以降、何事もなく。
 自分はベッドに戻り再度就寝。
 AM6時過ぎには起床。。

AM11時
 家族揃って担当の先生と面談を行った。

 『今週一杯もつかどうか。。長くても
  来週火曜日です。』

 全体が真っ白な肺のレントゲン写真を
 見せられた。

 『真っ白に写っている所がすべて
  肺炎に侵されている所です。
  肺で酸素を取り込む事ができず、
  脳に酸素が届かないので
  今のような昏睡状態になっています。
  足先、手先が黒ずんでいるのも
  そのせいです。』

 その日は以降、何事もなく。
 家族揃って昼食を病院の近くで食べて
 解散。。

PM20時過ぎ
 再び病院に。
 翌朝まで何事もなく過ごす。
 親父の様子は安定。

=10/17(水曜日)=
 
AM7時頃
 親父の様子は相変わらず安定。
 10/20(土曜日)に復路の飛行機チケット
 を予約している事が気になりだした。

 親父の様子が安定しているのは良い事だ
 が、自分はその日に帰京するべきか、
 先生の言う通り、翌週火曜日までは、
 鹿児島に留まった方が良いのか。

 自分では判断がつかなくなったので、
 前日の10/19(金曜日)に再度先生との
 面談を行いたい旨、看護師の方に依頼
 して実家に帰宅した。

PM20時過ぎ
 お袋が、

 『あんた、身体は大丈夫ね?。。』

 と心配する中、

 『大丈夫!
  病院にいかないと僕の帰ってきた
  意味が無か!』

 病院に到着。
 この日も親父が目を開いた。
 でも容態は安定。

 親父の耳元で色々と話かけてみた。
 親父の目尻に涙が滲み出ているように
 見えたのは気のせいだったのだろうか。

=10/18(木曜日)=
AM7時頃
 起床。
 当直の看護師の方に様子を聞く。
 夜通し安定していたとの事。

 いつものように近くのコンビニで朝食を
 買って病院に戻る。


AM8時過ぎ
 担当の先生が突然病室に訪れてきた。

 『先生。。!
  実は相談したいことがあります。
  土曜日に東京に戻る飛行機。。』

 と言いかけた所で私を遮り、
 先生が頭を横に振った。。

 『もう今日です。
  明日まではもう持ちません。』

 急いで家族に連絡を入れた。

AM10時過ぎ
 その頃には親父の呼吸も浅くなって
 おり、口だけで酸素を吸っている
 だけの状態だった。

そして昼前
 妹が近くのコンビニで弁当を買って
 きて、さあ食べようか、、という時
 だった。

 親父がまた突然目を開いた。
 しかも10分間程まばたきひとつせず。

 記憶が走馬灯のように駆け巡っていた
 時間だったのだろうか。
 10分程過ぎて瞼が閉じられて、
 見守っている目の前で呼吸する音が
 ふっ。。と消えた。

 急いでナースコールを押す。
 担当の先生がきて波打たない心電図を
 見せて臨終を告げた。

 『本当に死んだんですか?』

 『はい。。お父さんは息子さんが
  帰ってくるのを待っていたんだね。』

 声を出して泣いてしまった。。

 その後、綺麗にされた親父と一緒に
 病院を出て葬祭場に向かった。
 病院の方が一列に並んで頭を下げる
 間を通って。

葬儀の席で親戚が揃っている所で集合
写真を撮った。
2日ほど前、病院に向かおうとしている
自分をお袋が案じている理由がわかった。


自分の頬がやつれてこけていた。

確かに毎晩辛かった。
でもこれまで一人で面倒を見てきたお袋
の爪の先程にもならないちっぽけな苦労
である。

最期に逢うことこともできず、後悔する
ような事にだけはならなくて良かったと
心底から思った。

友引の日という事で谷山にある南部斎場
で荼毘にふされた。
その斎場から見えた桜島のなんと美しか
った事か。。。


これで私は生みの親を両方とも亡くして
しまった。
これからは私が小学生の時に家族に加わ
ってくれた育ての母親を大事にしていこ
うと思う。

今は亡き、東京渋谷の叔父貴が残して
くれた座右の銘のひとつの言い付けが
守れるように。

親父には、、
どこまでしてあげられたのだろう。。

こら!めぐみ!
親孝行は親が生きちょっ間にせんと、
何にもならんたっど!
親が死んで墓に入った後にどしこ頭を
下げても遅かたっど!



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