投稿

11月, 2018の投稿を表示しています

最期の4日間の記録

イメージ
親父と過ごした最期の4日間。 早くも記憶が断片的で曖昧になりかけて いるので忘れない内にその4日間の出来事 を書き留めておきたいと思った。 #これで親父の事を書くのは最後にしよう  と思う。。 =10/15(月曜日)= PM21時過ぎ  親父が入院している病院に到着。  裏口のインターホンで名前を告げて中に  入れるようにしてもらっていた。  宿直の看護師の方に親父がいる個室の部  屋まで案内してもらう。  既に意識が無い親父との無言の対面。  看護師の方と親父を目の前にしていくつ  か話をした。  『意識が無くなったのはいつから   ですか?』  『先週の金曜日の夕方からですね。。   それまでは普通に。。』  意識は無いが容態は安定しているという  話を聞いて病院の集会室に用意された  簡易ベッドに案内された。  幅が窮屈だったがそれ以外は何の不満も  なく。  親父の様子を暫く見守ってから、  その日は東京からの移動で疲れた事も  あり23時前にはベッドに横になった。 =10/16(火曜日)= AM3時頃  横になってから、わずか4時間後の事。  看護師の方の急を告げる声で目を覚ま  した。。  『脈拍が下がっています。。』  病室までフラフラしながら向かうと  宿直の先生も来ていた。  『酸素マスクがずれたようですね。   マスクを着け変えたら数値が安定   してきました。』  その後、看護師の方が親父の枕の位置  を変えている時、親父が目を開いた!  しかしながら意識がある目ではなかっ  た。瞳孔が開いており、目の前の光り  にも全く反応が返ってこなかった。  4,5分後、再び目が閉じられた。。  以降、何事もなく。  自分はベッドに戻り再度就寝。  AM6時過ぎには起床。。 AM11時  家族揃って担当の先生と面談を行った。  『今週一杯もつかどうか。。長くても   来週火曜日です。』  全体が真っ白な肺のレントゲン写真を  見せられた。  『真っ白に写っている所がすべて   肺炎に侵されている所です。   肺で酸素を取り込む事ができず、   脳に酸素が届かないので   今のような昏睡状態に

親父の生涯

イメージ
平成30年10月18日 午後12:05分。 家族が揃っている目の前で親父が90年の 生涯を終えた。 つい2カ月前に会ったばかりだった。。 でも親父の最期を看取る事ができて本当に 良かったと思う。鹿児島と千葉と離れて暮 らしている事からほぼ諦めていた事だった。 最期の親父を見守っていてつくづく思った。 人間はそう簡単には死なない。 でもその時が訪れたらあっけなく逝って しまう。 新川崎での仕事が前の週に始まったばかり の翌週月曜日の事。朝5時の電話に叩き起こ された。 『お父さんの意識が先週の金曜日から無く  なったのよ。帰ってきて。』 お袋の声を電話で聞いて、急いで当日朝の 飛行機を予約、電車に飛び乗って成田空港 に向かうも5分遅れでチェックインできず。 そのまま夕方まで空港内で過ごし実家に 到着したのが夜の20:00過ぎ。。 #こういう所、成田空港って本当にいけて #いない! 夕飯をお袋と食べて夜21:00過ぎに親父が 入院している病院に向かった。 酸素吸入機につながれたまま意識が無く、 ベッドに横たわっている親父の姿を見て 半ば唖然となった。 それから木曜日までの4日間。 昼は実家に戻り、夜は病院に泊まる日が 続き、4日目の事だった。 見ている前で呼吸がどんどん浅くなり、 ついに呼吸するのを止めてしまった。 自分はもっと悲しくてうちひしがれるもの と思っていた。でも親父の入院していた 病院の先生から親父の臨終を告げられ、 『お父さんは息子さんが帰ってくるのを  待っていたんだね。。』 と言われた時には思わず涙が溢れてきた。 葬儀の席で家族代表で挨拶をした時にも 途中から涙が止まらなくなってしまった。 もっと親父に絵の手解きをしてもらいた かった。 興味を持ち始めるのが遅かった。。 死は誰にも平等に訪れる事である。 自分の生涯も残す所、20数年しか残されて いない。 親父のように何かに打ち込める生涯を送り たい。後悔の生涯だけにはしたくないもの だ。