自分の幸せ、誰かの幸せ

今年一年も終わろうとしている。
今年を表す一文字『災』。


私にとっても決して平穏な一年では
なかった。

親父が亡くなった。
親父が亡くなったんだ、という事実は
日を追う毎に私の気持ちの中で、
ゆっくりと重みを増してきているような
気がする。

でも親父は自分がいなくなった後に
残された家族の事をしっかりと考えて
くれていた事がわかってきた。
だから私は自分の事を不幸だとか、
可哀想だとか、決して思うまい。

『そっちの居心地はどうね?』

自室の遺影に話かけてみる。
答が返ってくる事はない。
でも何かしら傍に寄り添ってくれて
いるような気配がする。


親父の葬儀が終わり、帰京して一冊の
本のタイトルが目を引いた。
伊集院静氏の著

『誰かを幸せにするために』

伊集院氏の本というと一見平穏な内容
から読者の感情を激しく揺さぶる一節が
突然表れるという印象を持つ。
この本もそうだった。

泣いてしまった。

私の魂が揺さぶられたその一節を
ここで紹介したいと思う。

曹洞宗の和尚と伊集院氏が、
幼き頃亡くなった伊集院氏の弟の事を
語った時の会話を綴った章である。

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生きていれば

(略)

「もうひとつ死んだ者が夢の中で1度も
 まだ出て来ないんですが、
 自分が薄情だからでしょうか?」

「そりゃちがう。イイ寝方ができとる
 だけだ。」

「熟睡してるって事ですか?」

「そりゃ、わしにはわからん。ただ
 ひとつこういう考え方もある」

「何ですか?」

「おまえはやさしい兄貴だから、
 弟さんは気遣って出んのだろう」

「気遣ってですか?」

「そうだ。夢に出てみろ。
 たいがいの人は目覚めて悲しむ。
 女、子供だったら涙を零す。
 そういう思いをさせたくないからだ。
 死んだ人は残された者のしあわせを
 祈っとるものだ」

「・・・・」

(略)

人が人をしあわせにできるのかどうか
は正直私にはわからない。
ただ、この世で生きている時に出逢った
こと、それだけで十分に価値があったの
ではと私は思う。
 
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来年も良い年になるように。



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